正直、病んでいると思った。
目が覚めてすぐに視界は見知らぬ天井で染まり、起き上がれば、手にも足にもテレビドラマで見るような手錠と、鎖。
「やっと起きたか」
静かな声だった。
そこで漸くその存在に気づいた俺は目を向けて、長い足をソファに投げ出す男を映したのだ。
「…東雲、恭」
「テレビを観ないお前でも、俺の名前は覚えたんだ?」
「毎日見てりゃ嫌でも覚える。これ、何のつもりだよ」
じゃらりと鎖が鳴いた。
「悪ふざけが過ぎるんじゃねぇ?犯罪者だぜ、おっさん」
演技中とも、勿論、あの日ライターをくれた時のそれとも違う感情が見えない大人の男は無表情で、コーヒーを啜る。ただでさえ気の短い俺は、辛抱強く返事を待った自分の忍耐力を誉めてやりたかった。
「…今とは違う世界に行きたかったんだろう?」
喉乾いたと呟いた瞬間、ペットボトルとその声が飛んでくる。
繋がれているとは言え稼働域が広いお陰で、ベッドの周囲くらいは行動出来そうだ。
「そのドリンクのキャッチコピー」
俺は躊躇わずペットボトルのキャップを捻り、ごくごくとスポーツドリンクを煽った。
「アンタがCMやってんだろ?姉貴から聞いた」
「二人姉弟だったな」
「何で、それ」
「垢抜けない坊主頭と語ってたじゃないか。知らなかったのか?校舎側のゴールポストの裏、保健室が楽屋になってるんだ」
「聞いてたのか、盗み聞きなんて良い趣味してやがる。芸能人の癖に」
「お前の声は良く通るんだ。知らなかったのか?」
「知るかよ」
外してくれるなんて期待はしていない。
こんな事をしておいてこんなにも落ち着いている相手を、俺は病んでいると思った。逆らえば何をされるか判らないと言う恐怖、ただでさえ憧れていた東京から来た、異邦人だ。
「仕事、終わったんじゃねーの」
「ああ、学校ロケの分は昨日撮り終えた。最終調整はこれからだろうが、撮り直しはないだろう。少なくとも、俺は」
「何で?」
「ギャラが高いから」
「マジかよ」
俺は笑った。
恐らく俺はまだ、自分の置かれている状況が判ってなかったのだ。いつもと明らかに違う非日常に、浮かれていたのかも知れない。
「一昨日、女と抱き合ってたろ。階段とこで」
「見てたのか」
「俺じゃねーよ。噂になってる、らしい」
「わざとらしくつまずいて、引っつかれたんだ。彼女の演技は酷いと思っていたが、あの時も酷かった」
「俺に演技の違いとか判ると思うわけ?」
「DVDを用意してある。但し、俺が演ったものだけ」
沈黙しているテレビを東雲は指差した。
学校が映画の舞台になると聞いてから、街角や本屋で何回か見掛けた顔が、目の前にある。判っているのに、コイツがテレビに映ってるなんて、信じられない。
会話してる事自体、奇跡だろうが。
「これ、いつ飽きんの?」
「さぁ」
「目の下、隈スゲー」
「この部屋を用意したり、色々大変だったんだ」
「寝たら」
「…ああ」
捕食者の双眸が俺を見た。
それでもまだ俺は、自分の置かれている状況が判ってなかったのだ。近づいてくる男が広いベッドに乗り上がってきてもまだ、何も、判ってなかった。
「お前の声を聞きながら眠るのは、気持ち良さそうだ」
正直、病んでいると思った。
疲れた表情で子供を貪る男も、何一つ知ろうとしなかった、俺も。
狐が笑う声を聞いた。
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abbiamo sete:喉が渇いた