LAGNATELA NERO

lo scarafaggio#

「キョーちゃん、おはー」

豪華なホテルなどない、あるのは潮風に晒され築年以上に古びた民宿と、集落か漁村か、あれた針葉樹林、それだけ。
やたら大きな学校があると言う前評判だけを聞き齧り、島流しの気分だ。

「………ハヤト?」
「久し振りだねえダーリン、昨日の夜からお邪魔してるよお。気づかないでとっとと寝ちゃうんだもん、死んだかと思ったあ」
「…久し振り。何、重い」
「元スーパーモデルになんてことほざく」

出来る限り他人の気配がない場所として与えられた、民宿の離れは潮騒と風の音に包まれており、こればかりは心地好かった。最大唯一の利点と言っても良い。
今までも度々秘境を訪れてきたが、どうせならもう少し静かな場所の方が良かった。せめて追っかけがついてこれない距離。高望みかも知れない。

「お風呂9時からだってさあ。マジ田舎。海は荒れてるし暑いし魚は美味しそうだけど朝ご飯出てこないし」
「ああ、朝食は食べないから断った」
「死ねばよい」

近場にはコンビニも自動販売機さえもないが、心得ているマネージャーに任せておけば不自由はなかった。それ以外の不満と言えば、騒がしい他人の声くらいか。

「その程度で殺すな。腹が減ったなら買いに行かせるか?母屋に原田がいる」
「ああ、信者1号ねえ」
「…口が悪いな」
「流石主演は違うねえ。居場所完全非公開でSPまでついてるってさあ?あは。逆に居場所バレバレなんですけどお」
「警備配置で俺に気づくのはお前くらいだ」
「元警察官のマネージャーなんて、大事にされてるよねえ。岩石みたいなオッサンだったけど、襲われたりしない?」
「しない。お前の価値観で人を判断するな」
「あは。オメーの場合、男のストーカーの一人や二人居るだろーがあ」

島の住民はまだマシだろうが、余所からついてきたファンと言う名の騒音は、島に金を落とすのと同時に迷惑まで落としていく。何事にも二面性はあるが、良かれ悪かれ自分等の所為で島民に迷惑を掛けていると聞けば、当然ながら良い気はしない。
肩書きは東京都なのだから、土台無理な話か。女のファンの方が厄介なのは、誰もが理解している。

「ねえ、八丈島行った?小笠原見た?すっごいよ、真っ青でさあ、心が洗われる感じだよー」
「…心が清らかな人間が、人の布団を奪うのか?」
「だって枕一個しかないんだもん」
「道理で腕が痺れてる…」

昨夜も撮影が押していた。
いつ寝たのか定かではない事に溜息一つ、敷きっぱなしの布団の上、デカい男が転がっている光景を横目に起き上がる。肩の怠さは肩凝りなのか、単に望まない腕枕の後遺症か。

「そう言えば、友情出演?」
「ぶっぶー、特別出演だっつーの。今度隼人君ねえ、年末プロモ撮るのお、此処でえ」

間延びした声は薄い唇から。
黙っていれば冷たさを感じさせる美貌に、わざとらしい程の笑みを滲ませた男からは、見た目とは真逆の雰囲気を感じた。機嫌が悪いらしい。

「だから下見も兼ねて早目に来てみた、っつっても、今回はちょい役だけどねえ。8月中はアメリカだもん」
「眠そうだな」
「んー…?あー、まーね。移動が大変、みたいな?」

暫く見ない間に、随分落ち着いたらしい昔馴染みを横目に、昨夜の格好のまま寝ていた事に気づきシャツを脱ぐ。

「確か、拠点をアメリカに移したんだったな」
「この何年かは行ったり来たりでえ、正直しんどいかもー…」
「仕事セーブしたんじゃないのか?CM以外の露出は殆どないよな」
「あー、こっちはまあ、息抜きのバイトみたいなもんだからねえ」
「息抜き、か。随分下に見られているな、日本の芸能界は」
「あは。そっちこそ、演技してない時は死人な癖に」

一昔前はアジア最高のモデルとまで賞された、純日本人にあるまじき恵まれた体躯の男は、今や俳優業に留まらず監督業にまで手を伸ばし、マルチに活躍している。
とは言え、業界人だからこそ顔を合わす機会があるだけで、一般のファンには消えた説が流れる程には顔を見なくなった。今や神出鬼没のレアキャラクターだ。

「それ、去年ルーシーにも言われた。俺としては普通にしているつもり」
「ルシフェル、イギリスに帰ったんだってえ。大好きなお兄ちゃんがお見合いするって聞いて、ブチ切れたらしいよお」
「…何度目だ?」
「今回はあ、わりと本気みたいだねえ。目を光らせてた父親が死んだばっかだし」

こんなに言葉を交わしたのも偽りなく何年振りなのか、東雲恭の記憶にはない。きな臭い話から始まった朝にしては、目映い空だ。

「…8時前か。正味な話、お前は夜行性だと決めつけていた」
「隼人君はあ!十時には寝るよい子なのお。そーだ、こないだダサぱちに会ったよお」
「兄さんに変な呼び名をつけるな」
「相変わらずキョーに似てるよねえ、顔だけは。何か忙しそうな感じだったけどさあ、ボスのとこに顔出してたー」

数年前まで教師だった実兄は、実家の財閥を継ぐべく半ば無理矢理家へ戻された。それでも愚痴を溢さない優秀な人格者で、自慢と言っても良いだろう。但し、一般論だ。

「ボス?…ああ、彼か」
「そう、今こっちに来てんでしょ、もう会った?」
「初日に会った。彼は相変わらず、寒気がするほど雰囲気がある人だな」
「あは!ねえ、キョーちゃん。あれは好きになっちゃ駄目だよー?ああ見えて子持ちだしい、陛下からあ、殺されちゃうからあ」
「ふ」

揶揄いの台詞に薄く笑む。
間違ってもそれはないと首を振り、汗で張り付いた襟足を掻いた。

「たった一度グラビアの表紙を飾っただけで世界の美男一位に認定された人相手に、敗北確定の間男なんて誰がするんだ。あの方は男爵だ。一介の俳優が貴族相手に…」
「東雲の血は濃いんだよお?帝王院と聞いたら形振り構わず尻尾振っちゃう病気だからねえ」
「まぁ、俺が東雲でないとしても、あの二人には逆らおうとは思わなかっただろう。東雲じゃないそっちこそ、飼い犬の様なものだろうに」
「あは。帝王院財閥の会長でえ、一応学園の理事長だもんねえ。あ、でも夏休みの間は学園長もやるんだっけ」
「…どう言う意味だ?」
「祝日扱いってことー」

言葉遊びだろうか。
昔から一癖も二癖もある男だったが、互いに三十路を前にして理解から遠ざかったのかも知れない。とは言え、十代の頃から判りあった事などあっただろうかと考えて、東雲は頭を振った。まだ目が覚めきっていないのかも知れない。

「…兄さんは元気そうだったか?」
「知りたきゃマメに実家帰ったら?長いこと会ってないんだってねえ、心配してたよお?」
「実家は…母が倒れて以来、か」
「手紙出しても返事ないって。つーか今時携帯持ってないとか、何処のジジイなの?つーか何年会ってないのか知んないけど、隼人君は元担任の味方だからー。ただでさえダサぱち友達居ないんだからさあ、無視しないであげてよお」
「成人式以来、か?」
「兄不孝だねえ」
「そっちこそ、西指宿議員に連絡取ってるのか?今度衆院選だろう?」
「さーね。キョーとは違ってえ、こっちは腹違いだしい。兄弟っつったって、他人みたいなもん」
「そう」
「つーか今回のスポンサー、ワラショクが大株って知ってる?マジ笑ったんですけど」

ああ、嫌な事を思い出した。
それと同時に艶やかな美貌も思い出し、肩を竦める。

「…笑えるものか。お陰で俺は、会見前の顔合わせの時から睨まれてる」
「あは。誰に?」
「社長にも、…大株主の叶さんにも」
「あは、あは、あは」
「笑いすぎだ。跡継ぎの兄さんと違って、俺は最低限の護身術しか扱えないんだぞ。…下手な人に目をつけられた、厄介だよ全く」
「大丈夫だよお、あの人が大人げなく殺気剥き出しにする時はねえ、単純に嫉妬してる時ってことー」
「…嫉妬?あれほど美しい人が、俺に?」
「へえ、キョーはあ、あーゆーのが好みなのお?」
「好みかどうかではなく、正常な男としての評価のつもりだ」
「顔が綺麗でも自分と体格変わんない男だよー?抱きたいとか思うわけ?」
「まさか」
「あは。良かったねえ、首の皮があ、辛うじて繋がったっぽいよー」
「人の不幸を笑ってると、自分に振りかかるぞ」

脱いだシャツを投げつけ、色素の薄い灰の目を視界から遠ざける。狼の様な男だといつか考えた事があるが、今はどうだろう、垂れ目を細めて笑う様は、狐に近いかも知れない。

「嫉妬、か」
「人は醜い生き物なんだよねえ。他人と話してる姿を見るだけでいらっとする事もあるわけえ」
「経験論?」
「さあね」

成程、不機嫌な理由はそれか。

「…指輪」
「ん〜?」
「噂は本当だったのか。結婚を考えてる相手が?」
「あは。…結婚ねえ、んー、つーか、もう家族みたいな感じ?」
「何だ、もう籍入れてるのか?まさか三十路で焦った訳じゃないだろう?」
「うわー、聞きたがり病だあ、面倒くっさー」

ケラケラ笑いながら布団の中へ潜り込んでいく背中から、右手の薬指に光るシンプルな指輪へ視線を滑らせた。これと言って派手な格好をする男ではないが、元がモデルなだけに自分に似合ったブランドで着飾っている。アクセサリーにしても昔はかなり派手だった覚えがあるが、見ない内に大人しくなったのだろうか。

「俳優は演技だけしとけばあ?そっちこそこないだ噂になった女優、もう破局したらしいじゃんかあ」
「破局も何も、一度ドラマで共演しただけだ」

どうやら男は会話を打ち消したいらしいが、庭と呼ぶのも憚られる小さな坪庭に気配なく現れた人影を認めてしまえば、どちらが邪魔者なのだろうかと。

「でもする事はした訳?」
「それこそ一度」
「そこに愛はあるのかー。やだー、このひと爛れてるう、えんがちょ」

最近でこそ大人しい様だが、昔は無節操で有名だったバイモデルの台詞とは思えない。庭先からヒヤリとした冷気が漂ってきた様な気もしたが、季節は真夏だ。考えたくない。

「ハヤト」
「もー、眠たいんだから静かにしてよねえ」
「良いのか?お前の旦那様が迎えに来てる」
「う、へっ?!」

飛び起きた長身を横間に庭へ顎をしゃくれば、人の宿泊場を何と心得ているのか、目が覚める様な青い長髪を結い上げた男は寒気がする様な笑みを浮かべたまま、土足で畳の上へ上がってきた。

「俺は別にお前なんか迎えに来た覚えはありません、猊下が褒めてらした俳優を見に来ただけです。…離れろ隼人、鬱陶しい」
「やだやだやだ、要ちゃんの意地悪ううう!!!うわあん、嫌いってゆったの嘘ぉお!!!」

慌ただしい乱入者が出ていくのを横目に、畳に転がる煙草の箱を掴み上げる。



「…残念、空だ」

快活な蝉の音が聞こえてきた。
焼ける様な日差しが澄み渡る青空に映え、艶やかな緑が潮騒と共に揺れる海辺。

人は人を愛するものらしい。
仲間だと思っていた男でさえ、あの様だ。

「人は醜い生き物、か」

何処に居ても世界で一人の様な感覚は、消えてなくならない。
自分だけがまるで世界の害虫の様だった。


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lo scarafaggio:害虫
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©Shiki Fujimiya 2009 / JUNKPOT DRIVE Ink.