(いた、い)
(こわい。こわい。恐い…)
声も出ないくらいの恐怖は、体の奧へ奧へ進み行く凄まじい痛みに涙を流した。
「痛…ぃ」
けれど容赦なく腰を打ち付けてくる男は鋭利な美貌の整った眉を寄せ、嘲笑う様に唇の端を吊り上げるだけだ。
「そのうち、良くなる」
その内とはいつの事だろう。
カタカタ震える両手は固く縛られたまま、汗ばむ肌はなのに酷く冷めていた筈だ。凍える程に。
引き摺られるまま、荒波に攫われた。長い様で一瞬の様にも思える時間、その時はまだ、永遠の地獄の様だった。
ひっきりなしに肉と肉がぶつかる音がする。
それが自分の腰から放たれているものだなんて、知らないままでいられたら、どれほど。
「余計な世話と言う言葉を学んだか、坊や」
どれほど、幸せだっただろう。
笑う、嗤う、─────嘲笑う。
何処から見ても非が見当たらない美貌で、酷くつまらなそうに彼は。最初から最後まで、笑っていた気がする。
「善悪の判断だけでは、人は生きていけない。次からはケースバイケースも覚えよう」
小生意気な子供だ、と。
美貌を嘲笑で歪めた男は、真夏にも関わらず冷えきった冷たい指で頬を撫でてきた。
苦労を知らない坊や、と。
馬鹿にするでもなく、まるで事実確認の様に囁いた男はひたすら無表情な眼差しで、見下す様に。
「ぅ」
「どうしたの、にらめっこはもう終わりか?」
「も、ぅ、いやだ…」
「じゃあ、終わらせてあげようか」
知らなかった事は罪だろうか?
彼が一般人ではない事を。彼がこれから先、二度と忘れられなくなる男だと言う事を。
気付いていなかったから、これはその罰なのだろうか。
「…何だ、触ってもいないのに出したの?」
「ぁ、っあ、う…ぁあああっ」
「純粋な振りをして、とんでもない淫乱だ」
体の最奥を容赦なく抉った熱。
彼は最初から最後までただの一度も、笑ってなどいなかった。
甘い蜜の香りで誘う、食虫植物。ならば誘われた俺はきっと、食われる可能性を欠片も疑わない、哀れな蜜蜂なのだ。
食物連鎖に理由など必要ない。
捕食者に被食者の素性など必要ない。
あるのは甘い甘い、蜜の香りで充分だ。誘われた蝶は、それが蜘蛛の巣だと知らずに近付いていく。
食われ消化された後に残るのは、食べた者の腹を満たした充足感だけ。
「…そうだ、」
(ひらり)
(ゆらり)
(落ちていく舞い上がっていく)
(流されるように沈んでいくように)
「君の名前は?」
(甘い甘い香りに誘われて)
(酔い痴れた愚かな蜜蜂は)
錯覚するのは甘い甘い、蜜の香り。誘われた蝶はそれが蜘蛛の巣だと知らずに近付いていく。まるで働き者の蜜蜂のように。
食われ消化された後に残るのは、食べた者の腹を満たした充足感だけ。悲しみも未練もきっと、残りはしない筈なのだ。
「誰…が、教えてやっか、よ」
「気丈な坊やだ」
何せお互い。
名前すら知らない、他人だったから。
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vespaベスパ:蜂