LAGNATELA NERO

chissa

「ただいま」
「…今日は早かったな」
「そうかな?」
「いい加減新しい時計買って来いよ」

土産は毎回ジャンルが違う漫画か雑誌、時折高そうな寿司にデザート。スイーツと呼ぶのだと男が笑ったのはいつだったか。淋しいと言えば土産がペットに代わる癖に、新しい時計やアクセサリーはない。この部屋に時間など必要なくて、キスマーク以外の所有印があるのが我慢出来ないと言う。

ただいま、お帰り。
まるで家族の様に繰り返される挨拶の後には、決まって同じ台詞が続く。


「今日は何をしていたんだ」

深夜まで帰って来ない男を、いつからか待ち侘びていた。
決して口には出さなかったけれど、ある日眠る間際に帰って来た男が、狸寝入りしていた耳元で寂しげに囁いたから。


ただいま、愛しているよ。


あの男がどんな表情でそれを囁いたのか、未だに知らない。何がいけなかったのか、何が彼を狂わせたのか。
出会ってからの記憶を走馬灯の様に幾度と無く繰り返したが、答えを聞く勇気など何処にも。

知った時に何かが変化するのが恐かったのかも知れない。


「…ホイミ覚えさせてた」
「ホイミ?」
「知らねぇのかよ、ゲームの回復呪文」

一緒に暮らす内に判ったこと。
この男は驚くくらい世間知らずだった。いや、確かに頭は良いのだろう。世情に疎いと言うか、世俗に疎い、と言うべきか。

「ゲームか。どんな内容なの」
「ロープレだよロープレ」
「ろーぷれ?」
「ロールプレイングゲーム!知らねぇなら聞くなや、うっぜぇ」
「ああ、知ってる。RPGって言うんだったな、ハヤトから聞いた事がある」

例えばドラマ撮影を控えていて、一度読んだ台本を二度開く事はない。

「…お前さぁ、いつも思うんだけどソイツしかダチ居ないのかよ」
「うん?」
「陰険マネージャーはお前に心酔?してる感じがすんだけどよ、俳優とモデルなんか接点なさそうなもんなのに」
「ハヤトは違う。友達でもなければ、赤の他人と余り変わらない」
「…の、割りにはちょいちょい話題に出て来んだな」

いつかの夕方に見た、狐の様な男を思い出した。後になって余りに有名なモデルだと知ったが、あの時は何処かで見た顔だな、程度のものだ。
世間知らず、と。何かにつけて詰ってきた幼友達三人組は今何をしているのだろう、かと。何度も考えたが、受信しかしないファックス電話だけではどうしようもない。

「ハヤトは、ね。兄の教え子だったんだ」
「兄貴なんか居たのか」
「年の離れた優秀な兄だよ」
「教師より俳優のがずっとスゲー気がするけど」
「そうかな」
「第一稼ぎが違ぇだろ、稼ぎが」
「私立教師なんだ」
「あ?」
「片手間に企業の会長をしていてね、俺よりずっとお金持ちだ」

家族について聞いたのは、それが最後。聞けば答えてくれたのかも知れないが、そこまでの情など無かったから。

「別に、お前の兄弟なんか興味ねぇし」
「そうだね」
「ホイミ」

覚えたばかりの言葉を繰り返すインコを肩に乗せて、それ以上の会話を放棄した。労を労えない自分の代わりに、この小さな翡翠色の鳥が家主を労っているのだ、などと面白くない感情に支配されて。
次の日に居なくなったライトグリーンの行方を、聞いた所で彼は答えただろうか。



テレビの中では決して笑わない俳優が、いつも笑っていた気がする。









「善弥ぁ…!」


泣き腫らした目元、崩れ落ちた化粧にも構わず駆け寄ってきた姉は、いつもの横暴さが嘘の様に大声で泣き喚いた。

「母さん!よ、善弥が帰って来たって言うのは本当か!」
「お父さん…っ、善弥がっ」

最後に見た時より一回り以上痩せ細った母は、軽トラから転がる様に降りてきた土塗れの父を見るなり崩れ落ちた。


「ただ、いま」

ぐしゃぐしゃのリーゼントをそのままに、貰い泣きした田村の隣で安堵の笑みを浮かべた宮田。随分難しい顔をした田嶋は固く唇を引き結んで、門の脇に立っていた長身を睨んでいる。

「無事逃がして貰えたんだあ、森崎君?」

会話するのは二回目。
相変わらず作り物めいた美貌、いつも笑っている様に見える垂れ眼が揶揄めいた笑みを浮かべている。

「君は一生飼い殺しだと思ってたよー」
「てっめぇ!」

いつもヘラヘラしている田嶋が、初めて暴力を奮ったのを視た。ひっ、と息を呑む田村の肩を抱く宮田も剣呑な眼差しで、田嶋の拳を恐らく敢えて避けなかった男の一挙手一投足を見つめている。


「むー、暴力反対ー。ま、これくらい許したげるけど?隼人君ってばおっとなだしー」
「んだと!」
「…やめろ、竜助」
「止めんなヨシ!」
「あは、モリリンは賢いねー。ふっつーモデルの顔に傷付けたらさあ、一生タダ働きになる所だもんねえ、タジマリュースケ君?」

青冷める皆が口を閉ざす。
クスクス嘲笑を響かせる狐を前に、不思議と恐怖や憎悪は無かった。


無意識に。尋ねたそれが、その時だけは。
きっと、ぐちゃぐちゃだった頭の中でそれだけが唯一の、確固たる何かだった筈だ。



「恭は、何処だ」


二度目に口にした憎かった筈の男の名前で、雨が降った。

「あは、未練とか言っちゃう?んな訳ないか、だったら仕返しでも、」
「教えて、下さい」

まるで狐の嫁入りの様だ、などと。
好印象などない筈の男へ何故縋る様な事を言ってしまったのか、
何故、哀れむ様な眼差しで彼は俺を見たのか



「…死んだ男の事なんか、忘れたら?」


両頬を伝う雨は、果てしなく。


きっと誰もが、神さえもが
知らない筈だった


自分でも理解出来ないのだから


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chissa:誰も知らない
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©Shiki Fujimiya 2009 / JUNKPOT DRIVE Ink.