無意識に。
信じ込んでいた。
「白鳥かな」
「…俺が?んなタマかよ」
あの男の所為で、あの男の魔法で。
「鳥に喩えるなら、今の善弥は白鳥だ」
「嫌味かよ。アヒルの間違いだろ」
「醜いアヒルの子は、白鳥に成長するだろう」
「はっ、じゃあお前は鷹か鷲だな」
二度と飛べなくなったのだと。まるで蜘蛛の巣に囚われた蝶の様に。
「善弥!」
思い込みだと気付いたのは、二人きりだった世界に『他人』が踏み込んできた時だ。
お決まりのデリバリー、飽きもせず同じピザ屋の箱を積み重ねると、一途だねと笑う男。
サラサラの黒髪で、涼しげな目元に皺を寄せて。疑うべくなく『幸せそうに笑う』、男。
認めた事はないけれど。
いつの間にか、警戒を忘れるほどには馴染んでいたのかも知れない。監禁された俺と監禁したアイツとひたすら二人きりの、もしかしたら一人の方が多かったかも知れない生活を。
何処かで受け入れていたのだろう。
すぐに居なくなるペット。
お気に入りのシルバーアクセサリー。
小動物や物にまで嫉妬するあの男の所為で、
「善弥!」
初めて、いつも冷静だった筈の幼馴染みが叫ぶ声を聞いた。
「善弥ぁっ、やっと、やっと見付けたよぉっ」
いつも何回蹴っても罵っても巫山戯けたあだ名で呼ぶ幼馴染みの、乱れたリーゼントが目の前に。
「帰ろう、善弥。もうこんな所に居なくても良いんだ」
「竜、助」
一体いつから口を開いていなかったのだろう。狂った柱時計は零時を指してボーンボーンと鳴いている。
何回この音を一人で聞いただろう。あの犯罪者はどうしたんだ。いつも掛かって来た筈の利己主義者からの電話も、いつから途絶えていたのだろう。
すぐに帰ると言った。
海外なんか行きたくないけれど。スポンサーが知り合いだから仕方ない、と。不機嫌げに呟いた男から、最後に抱かれたのはいつ。
最後に口付けられたのはいつ。
「お、れ。待ってなきゃ、」
「あの男なら、戻らない」
静かな宮田の声を。
哀れな者を見る様な田村の目を。
苛立たしげに地を蹴る田嶋を。
「東雲恭は死んだ。」
煩わしく思ってしまったのは。
だから、あの男の所為だ。
いつか見た狐を思い出した。
あの日もこんな風に空がオレンジだった様な気がする、と。
あの日とは違う何処までも晴れ渡った西日を見上げて、久し振りに見た空へ目を閉じた。
無意識に。
疑うべくなく。
信じ込んでいたのかも知れない。
思い込みだと気付いたのは、今。
終わらないと思っていたものが終わった瞬間、訳もなく胸が痛んだ。
酷い男だった筈だ。
何度も犯された体はもう、正常からは程遠い。今ですらこんなにも、あの男の熱を覚えている。
いつからこんな、いつからこんな風になってしまったのだろう。胸が痛い。やっと自由になれたのに。
『愛しているよ、善弥』
繰り返し。
思い出すのは愛の言葉。
与えられるのが当然の様に思い込んでしまっていたのだ。口付けるのが当然の様に思い込ませられたのだ。
酷い男から、あの、綺麗な顔をした犯罪者から。
『よしや』
何故か、涙が零れた。
あの男に汚された体の奥深くが痛い。純白だった未成年をこんなにも穢したあの男が憎い、のに。
いつの間にか思い込んでしまっていたから。いつの間にかあの男の言葉に、まるで魔法使いの様なあの言葉に。
支配されていたから。
「恭」
初めて言葉に乗せた名前に、涙が零れた。
愛していたのか憎んだままなのかは知らない。ただ、
『虫なら蜘蛛だ。猛禽類だな、どっちにしろ』
『なら善弥を喩えるなら揚羽蝶だね』
無意識に。
純然たる無垢さで。
呆れるほどの無防備さで。
『とても鮮やかな羽根で俺の目と心を奪った、蝶』
“二人きりの世界はまるで永遠の様だと”
『俺の巣の中に囚われたまま。一生飛べない、哀れな蝶』
俺はきっと、信じ込んでいたのだ。
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il cigno:白鳥